■No.254 公と私の教育のけじめ
H24.4.11発


公と私の教育のけじめ

 新年度が始まりました。 町では新しく小学校に入学した子どもたち、中学や高校に進んだ生徒たちの元気そうな声が飛びかっています。
 さて、皆さんもご存知のとおり、教育には公によるものと私によるものとの二通りがありますが、大切なことはどちらも形は違えども教育には変わらないということを理解しておかなければならないということです。
 もちろん、そこには家庭内あるいは地域での共通の教育があることも当然の話ですが、そんな中、「公教育」ばかりが全てであるかのようにいわれることに大いに不満を感じているのです。最近は、この「公私」の区別を付けないがために、学校という公教育の場に私教育的な内容、例えば、箸の持ち方などを平気で求めてくる親や保護者が多くいると聞きますが、もっと問題なのは、それが当然のごとく受け止められ、今の「学校がやるべきだ」と言わんばかりの社会風潮やマスコミ報道です。ある識者は、こんなことがはびこると、家庭や地域では「私教育」はますます行なわれなくなり、社会全体が「教育」的が関心の薄れた干からびたものになる、果たして、そうした社会に子どもたちが、本当に幸せを感じるのだろうかと言っていますが、まことに同感です。もちろん、学校や教師が楽をするために親や保護者に教育を求めているのではなく、子ども自身に、親や保護者による教育、すなわち「私教育」が求められているのであり、「教育のことは学校や先生に任せているから私は知らない」という態度を取ったならば、子どももどれほど寂しい思いをするかと感じます。まだ子どもたちがほとんど学校に通っていなかった時代のことを考えると、日常の生活は全てが「私教育」であり、「公教育制度」が整備され始めたことにより、その一部を一定の意図と責任を持って「公教育」としておこなったものなのです。家庭内の「私教育」は他人にはできないのであり「公教育」とは違うものだということを、あらためてどこかで明確にしてほしいと思うのですが、いかがでしょうか。

(H24.4.11)